「理容室」と「床屋」は実は違う
普段私が努めている青山のお店。グループサロンはいわゆる「総合調整」だけでなく「フェイシャル」「メンズネイルケア」などのメニューも理容業界で一番にはじめた歴史があります。
青山のお店は「一般的な理容店の概念」をこえた「靴磨き」「ボディーセラピー」「フレグランス」「再生美容」などグループの中でも一番の豊富なサービス展開をしております。
なぜ「カット・シャンプー・シェービングの床屋の総合調髪から逸脱したサービス」にこだわるのか?
それは私が努めているヘアサロンというのは「床屋」ではなく「理容業」からはじまる歴史にあるのです。
一般的な「床屋」というモノの前身は「髪結い床」という、江戸時代に武士が丁髷で馴染みのある「月代」を作るための剃る行為を行っていたモノです。自分達では綺麗に月代を作ることが出来なかった為にこれを職業にしていた方々が「髪結い」と言われていました。のちにこの呼び名が「床屋」となり、現代に至っています。
我々が言う「理容業」とはこの「床屋」とは一線を画します。
明治維新の頃に西洋の文化として輸入されたもので、「近代理容業」と称されています。
安政5年(1858年)、日本はアメリカとの間で日米修好通商条約を締結し、その後各国の間で通商条約を結び、函館、横浜、長崎が開港されましたが、特に横浜は江戸に
近い良港であったため急速に発展しました。そして、「文明開化はまず散髪から」という断髪風俗、それに伴う理容店(当時は理髪店といった)もまず横浜に起こりまし
た。
後に、日本における西洋理髪の祖とされる小倉虎吉、原徳之助、松本定吉、竹原五郎吉らは一丁の剃刀を携えて横浜港に入港した外国船に出入りして、月代で鍛えた剃刀の腕前を持って乗員の髭を剃っていましたが、日本でも散髪が流行する時勢が近づいていることに気が付いて、しきりに外国船に乗り込んでは西洋理髪師の手技を見習って技術を習得したそうです。
エステティックのフェイシャルマッサージも実は明治時代に理容店からスタートしたもので、先程の西洋理髪師の祖の一人、松本定吉の弟子、芝山兼太郎がアメリカ人医師、ドクター・W・キャンブルーとの運命的な出会いをし、マッサージ(血行療法を主とした求心的マッサージ方)の教えを受けました。
そのマッサージは「フェイシャル・マッサージ」として営業品目に加えられ評判を呼び、後にこのキャンブルー式マッサージは「生理的マッサージで、顔がとても綺麗になる」とのことから『美顔術』と呼ばれるようになり全国に広がっていきました。
男性のマニキュアもこの頃始まりました。
外国のセレブとの交流に社交マナー習得が必要になったからです。
当時の『交際必携西洋礼式(こうさいひっけいせいようれいしき)』という本には、食事作法、身だしなみ、挨拶、遊楽、舞踏会の礼儀など西洋式心得が網羅されています。
この「身だしなみ」には、絶対清潔、爪の汚れは禁物、鼻、耳の産毛は剃る、鼻くそ、耳垢、爪の垢は人前では取らない、カラーリング、整髪剤は清潔感を損なうので不使用などと書かれていて、爪については二度にわたって注意しています。
ジェントルマンやレディーと握手したり手を取ったりと、手は重要なコミニケーションツールのため、手や爪には細心の注意を払いました。
当時、美爪術、手美法と訳されたマニキュアは男性にも必須になり、やがて大正6年には高級理髪店で男性のマニキュアが営業されています。
明治大正の西洋マナーが男性のおしゃれに磨きをかけていったのです。
このような時代背景を受けてグループサロンでは特に「フェイシャル」「メンズネイルケア」は欠かせないものと考えており、サービスとしても非常に長い歴史があります。床屋との一戦を画した、身嗜みの概念こそが、交流マナーを心得る、あるいは目指す方々への真の総合調髪・総合理容サービスであり、更に今後も近代理容の歴史を進化させる役割を担っていると自負しております。
髪の毛を切り、髭を剃り、洗うのが床屋。
相手やシーンに合わせた身嗜みの概念からサービス提供を行うのが理容室。